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横 濱 珈 琲 物 語


横浜開港150周年を記念して製作したドリップコーヒー「横濱古琲」(非売品)

初めてコーヒーを口にした日の思い出。

私はとっくに忘れてしまいましたが、日本で初めて口にした方は勇気があったでしょうね!

珈 琲 伝 来

鎖国政策中の日本、長崎にオダンダより伝わったと言われています。

文献では、享保9年(1724年)「和蘭問答」に「唐茶」という記述が見られます。

当時コーヒーは、オランダ人や数人の通訳の日本人が飲用するにとどまり、嗜好品として一般に普及するまでは、明治の文明開花まで待たねばなりませんでした。

 

明治初頭コーヒー豆屋さんの始まりはYOKOHAMA?

港町横濱では、日本居留の西洋人相手にコーヒー豆を販売する店も登場しました。

明治2年(1869)に発行された、新聞「萬国新聞」に珈琲の販売広告が出たのが、現在分かっている販売店に関する最古の資料です。

横濱裁判所向 八十五番 エドワルズ 生珈琲 並焼珈琲

 

「エドワルズ」とは店名か人名。「生珈琲」は生豆。「並焼珈琲」はズバリ焙煎豆です。

当時は西洋人向けの豆売りが多かったでしょうが、「萬国新聞」は邦字、つまり日本人も顧客の対象だった可能性が高いという点が注目されます。

 

明治8年(1875)年「郵便報知」の記事(販売店に関する第2号の資料)

東京府南槙町三番地泉水新兵衛氏は、横濱本町通フランス五十六番シイノキリ氏伝習大機械をもってコーヒーを製造。その種およびその精味を極め、且つその価を廉にして売り出す・・・

 

何と、横浜に焙煎業者が存在したと言うではないか!

泉水新兵衛氏は、フランス人シイノキリ氏から焙煎技術と機械を手に入れて、東京で焙煎を極めて、当時高嶺の花だった珈琲豆を廉価で販売したという新聞記事です。

 

明治中期 コーヒー文化は鉄道に乗って横浜から東京へ

明治6年に新橋?横浜間に鉄道が敷かれ、コーヒー文化は横浜の西洋人から、東京のハイカラな人々に伝わり、明治21年(1888)東京下谷に日本で初めての喫茶店「可否茶館」が開店しました。

その後、ミルクホールの出現、カフェーの勃興と続き、画家や文士の間に広まって行きました。

 

明治後期 横浜に不二家が開店そして・・伝説の「カフェ・パウリスタ」

明治43年(1910)横浜元町ニ町目に「ぺこちゃん」の不二家洋菓子店が開店。洋菓子と供にリプトンの紅茶とコーヒーはモカとコロンビアを提供していました。

明治44年11月、東京京橋に「カフェ・パウリスタ」が開店。それまでとても高価だったコーヒーは、パウリスタで三分の一程度の価格で本場ブラジルコーヒーが飲めるとあって、一気に大衆化に拍車をかけました。

カフェパウリスタでコーヒーの味を知った日本人は数えきれず、カフェパウリスタから巣立った現在の大手コーヒーメーカーの創業者も多いのです。

あの赤レンガ倉庫が建設されたのもこの頃で、日本に輸入されるコーヒー豆のほとんどが赤レンガ倉庫の保管されていますた。

 

大正?関東大震災 当店のルーツ横浜にて開業

大正時代に入ると、コーヒーの大衆化は加速度を増し、太平洋戦争の始まる昭和12年まで、急成長と発展を遂げました。

横浜にコーヒーの焙煎を本業にする業者が増えてきたのもこの頃です。

カフェパウリスタは喫茶のみならず、コーヒー糖(コーヒー入り角砂糖)や、コーヒーキャラメル、ビスケット、シロップ、そしてコーヒー煎餅までも製造販売して、実際、コーヒーそのものを口にしたことが無くても、たいていの日本人がコーヒー糖やコーヒー牛乳で、味や香りを体験する程に至りました。

 

大正9年頃、義祖父は、コーヒーの生豆を横浜で扱い始めました。主に「モカ」の豆を仕入れ、上野や築地の精養軒、東京駅のステーションホテルなどに納めていたそうです。当時はコックさんがフライパンでモカの豆を焙煎していました。やがて、焙煎をする店を横浜西口に開いたのが大正12年の8月15日。そう、関東大震災の半月前です。

 

関東大震災以降

当時のコーヒー文化の中心カフェパウリスタは大きな方向転換を計りました。

地方の直営喫茶店をすべて譲渡して、事実上喫茶店経営から手を引き焙煎業者として発足しました。

譲渡された喫茶店は、地方において多くのコーヒー業界人を育てました。

当時、辛くも火災を逃れまた義祖父の店で震災にまつわるこんなエピソードがありました。

 

「当時、店の前には、モカの生豆が十俵ほど積んでありましたが、震災のドサクサでだいぶ持って行かれました。その後半年くらいたったころ、女のひとがモカの豆を返しにやって来ました。火に追われて逃げる途中、失敬したのですが、煮ても炊いても柔らかくならず、食べきれないのでお返しに来ました」

(日本コーヒー史 上巻 座談会より一部抜粋編集)

 

昭和?太平洋戦争 横浜港は日本のコーヒー豆の故郷

昭和元年、コーヒー生豆の輸入量は大正初期の10倍約1千トンまでになり、このころから東京、大阪に喫茶店、ミルクホールが急増しました。

その延びは、戦争の為、輸入規制される前の昭和12年には8571トンを記録しました。

気軽に「お茶を飲みに行こう」という言葉が喫茶店でコーヒーを飲むという事として使われたのもこの頃からです。

下記に記す「ローヤル焙煎機」が輸入されたのもこの頃です。

当時関東のコーヒー豆は横浜港に荷揚げされ現在の観光名所「赤レンガ倉庫」に保管されていました。

現在でもブルーマウンテンの樽や麻袋には荷揚げ港を示す「YOKOHAMA」の文字が印字されています。

 

戦時中?暗黒時代 「敵国飲料で輸入規制」タンポポがコーヒー?

「敵国の飲み物」として昭和13年から完全に輸入規制されたコーヒー。

焙煎業者は、売る物も買う物も無く、ただ右往左往するだけでした。

そこで、考案されたのが、「代用コーヒー」そう、コーヒーの代わりに大豆や麦、たんぽぽの根などを焙煎し、貴重なコーヒー豆と混ぜ、コーヒーとして販売されました。

今でも、欧州ではチコリなどが「混ぜもの」として使用されています。

よく、「昔のコーヒーは苦味が強かった」といわれるのは、代用コーヒーの印象では?と考えられます。

 

戦争終結?復興 なんと旧日本軍がコーヒーを隠し持っていた?

戦後の混乱期においても実はコーヒー関係は思いがけない好景気に沸きました。

というのは、コーヒー輸入再開に先立ち、旧日本軍が相当量のコーヒー豆を地方各地に貯蔵していて、終戦後、軍の解体によって持ち去られたり、払い下げられたりして市場を潤いました。

また、連合軍も野戦用のコーヒー粗挽粉を400t日本に持ち込んでおり、後に農林省指定工場に放出されました。

当時、日本軍の豆は農協を通じ、農家まで配給されましたが、所詮煮ても焼いても食べられず、納屋の奥へ置いた豆を東京、横浜から焙煎業者が汽車に乗って買い付けに行ったそうです。

連合軍放出の粉は、公平に分配され、横浜では、現在のキーコーヒー、キャラバンコーヒー、そして義祖父の3工場に渡り、加工、小分けされ配給し戦後のコーヒー文化復活に拍車をかけました。

 

近年 世界第3のコーヒー豆輸入

昭和25年から輸入再開されたコーヒー豆。

日本独特の缶コーヒー文化やインスタントコーヒーの普及で、アメリカ、ドイツに続き世界で三位のコーヒー豆輸入国となりました。

「お湯で割ったらアメリカン」のキャッチコピーのもと、家庭用電気式コーヒーメーカーが売り出され、いわゆるレギュラーコーヒーと呼ばれるドリップコーヒーが一般家庭にも浸透して来ました。

炭焼き珈琲が流行したのもこの頃で、舶来のイメージが強かったコーヒーは炭という熱源を得て珈琲という和のイメージも定着してきました。

また、おしゃれなシアトル系コーヒーチェーンの日本進出と供に急速にエスプレッソが広まり、若年層がコーヒーを口にする機会も増えて来ました。

 

現代 インターネットとコーヒー

インターネットの普及と供に、コーヒーを取り巻く環境は一変しました。

それまでは、生産地の乏しい情報は生豆を買い付け輸入する業者から人伝いに得ていた情報が、インターネットの普及で簡単に入手できるようになり、どこか謎めいていたコーヒーというものが農産物として見られるようになりました。

また、オークションでの生豆買い付けも頻繁に行われるようになり、今まで日の目を見なかった産地、農園のコーヒー生豆も入手できるようになった事は、消費者にとっても生産者にとってもインターネットのもたらした大きな恩恵だと思われます。

一方で、ブログ等の普及で私的な意見、感想がネット上を巡り、情報の氾濫と供に正確な情報を得る事がだんだんと困難になって来ました。

どんなに豊富な情報を得ても最後は自分の舌でコーヒーを味わい確かめ楽しむという事は、いつの時代でも変わらないと思います。

 

文:フォレスト 関口泰弘 2009年5月 画像追加

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